コラム

見出し 梅雨空の晴れ間
更新時間 2007/07/25 名前 よねやん
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「お疲れさまス!」

◇雨はまだ降っていないけれど、真っ黒な雲が一つの巨大な滴(しずく)となり、赤く点滅する高層ビルの先端でつつくと今にも落ちてきそうな7月の梅雨空である。今日も一日があわただしく過ぎ、夕方のNHKニュースが流れている。鉄仮面のような無表情のアナウンサーが他人事のように原稿を棒読みする。このいつもと変わらぬ空気感や時の流れはあまりにも平凡で、人生30000日の中ではとても記憶に残るような1日でないことは確かだ。

◇今帰っていったその男の年齢はちょうどその日で60歳、80キロはゆうにあるであろう立派な体格だが身長が180cmほどもあるために、ただ太っていると定義するには違和感がある。健康診断で見た目よりも体脂肪が低いといわれたことを自慢していた。そういえば若い頃は山歩きが好きで世界最高峰であるチョモランマにも登ったらしい。

◇一緒に食事をしたことがあまりないので分からないが、お昼もガッツリとした定食などを食べるという話を聞いたことがある。大食漢ではないがダイエットする気はないようだ。ただし血圧が高く医者からは甘いものと酒は控えるようにと言われているらしい。仕事が速くはないが真面目なその男は毎日8時頃まで仕事場にこもり、それから郊外の自宅に帰って食事を採るので、太るのは当たり前かも知れない。まあ、そんなことどうでも良いのだが、その彼が今日は珍しく早く帰って行った。変わった点はそれ位で平凡な1日が終わった。

◇次の日、やはり巨大な雨の滴はボトリとこの東京の街のどこかに落ちたみたいだ。それを証明するがのごとく、梅雨前線が小休止しているその空は深みのある蒼さを見せて都会のビルを浮かび上がらせていた。3歳の子供が描いたような同じ色に塗りつぶされた空は、関東平野のその先までも雲一つ無い。

◇朝9時、いつものように都会の一室で仕事が始まった。派遣社員でやってきて間もないS子は、これまでの誰よりも仕事を覚えるのが早く、完全に職場の流れにとけ込んでいる。他の社員もコマネズミのように電話の対応に追われている。
◇そしていつものように1日に1本はある苦情の電話、事情のよく分かっている人は指名で電話を掛けてくる。

「責任者のOさんを出してくれ!」

「はい、Oは定年を迎えて会社を辞めました」
「周りに何も話さなかったもので今はどうしているか・・・・」



◇送別会もなく最後までごく普通に仕事をこなし、忽然と目の前からOさんは姿を消した。10年近くも続いた今の職場での日常を、定年の日を境に鋭い刃物でスパッ切ったように、そこからまた別の日常を歩み始める。ドラマの世界では気丈な女性がそのように振る舞うのがお決まりではあるが、実際に目の当たりにするのはこれが最初だ。送別会を辞退するといっても「同期や身内だけでも」ということで内輪のお別れ会くらいは行うものだが、これも一切なかった。美学と言えば美学なのであるが、これは強い意志と多少の犠牲を払わないとできるものではない。

◇梅雨が明け、夏が始まる。新しい上司を迎えた職場では、全く新しいルールで懸案事項が進行して行く。最初はOさんが居ないことに時々違和感を覚えたが、それも日にちを重ねるごとに日常となる。それはお互いにとって悲しいことではあるが、それが仕事というものであろう。まあ、そんな難しいことはどうでもよい。いろいろあったけれど掛ける言葉はいつもと同じでこれしかない。

「お疲れさまス!」