コラム

見出し 写真評論家
更新時間 2008/10/25 名前 よねやん
本文 ◇写真を観ながらウンチクを並べているとあっという間に時間が過ぎてしまう。「この場所はココから撮るべきだ」「トリミングこうすればもっと良くなる」などと言い出したらきりがない。そういう筆者も審査では同じようなことを言って生業としている。

◇写真に限らず例えば、ゴルフや将棋などの世界では解説者が存在し、もっともらしい解説をしてくれる。元は一線で活躍し、引退後に解説者に転身する場合が多い。通常、実践経験の無い人はまず解説者にはなれないのだ。

◇写真の場合も解説者、つまり写真評論家が沢山いる。高齢になり、写真を撮らず審査や評論ばかりを行う写真家も多いが、若かかりし頃はバリバリのカメラマンだった人が殆どだ。いや殆どだったと言うのが最近では正しいかも知れない。と言うのもごく少数ではあるが実践経験が無く、最初から写真評論家を名乗る人が新しい潮流として出てきたのだ。画商が絵を描けなくとも語れるのなら、写真が撮れなくても語れるという理論だ。写真を撮るのは他人に任せて、写真の芸術的な面について大学で特化して勉強し、その観点から写真評論を行うアプローチなのだ。確かに写真の芸術性やテーマ性についてのみ論じるなら問題ないのだが一つの落とし穴がある。写真評論家の仕事は大体が写真愛好家に対して行うものなので、撮らない人が語っても感覚の違いを見透かされてしまい説得力に欠けるのだ。

◇先日、写真を撮らない若手の写真評論家が作品評論を行う集まりがあり参加した。「この手の作品は1980年代にニューヨークで流行し、今はこのように変化している」などと有り難い話を行うのだが、どうもしっくり来ない。しばらく聞いた後に、航空写真が30点くらい展示されその評論に移った。コツコツと撮りためたその作品は金と時間と工夫がにじみ出るような素晴らしい出来だったのだが、その写真評論家の言うことは全く異なっていた。

「うーん、これってどこかの航空会社のポスターみたいで伝わるものがない」

で済ませてしまったのである。撮影の苦労が分かっていないし、これじゃ写真愛好家に反感を持たれても仕方あるまい。本人は「写真を撮らないゆえに冷静に写真を芸術として向き合うことができる」という理屈なのだろうがそれで済む問題ではない。

◇写真はどんなに偉い評論家が凄い話をするよりも、その場でみんなの前で撮影して「こう撮りましょう」と見せる方が10倍説得力がある。それと同じで写真を撮らない人に写真を教わっても、微妙な感覚のズレは永久に縮まらないものなのだ。筆者が写真教室の講演で見せる作例は基本的に自分で撮ったものしか使わない。これは勿論、説得力を持たせるためが目的である。なかなか演題が変わる度に新しい作例を作り続けるのが大変なのだがこれがベストだと思う。撮らないで偉そうな話をするほど度胸も無く、体が動くうちは「プレーヤーがプレーヤーに話す」というスタイルを続けるつもりだ。

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今週の10月21日?22日に
「読売新聞の現役カメラマンが同行する喜多方と会津西街道撮影紀行2日間」

というツアーがあり行ったのでその時の写真をお見せすることにする。
東京YPCの田辺さんが案内ブックに載っていないような喜多方の蔵を案内してくれ 最高のたびであった。研修セミナーといい最近読売写真大賞事務局に関連するツアーは 手前味噌ながら大ヒットの連続だ。


中心部から離れた下三宮にある蔵、ここで写り込みを撮るのが定番らしい


「塔のへつり」の紅葉は最高だった


山の紅葉と飛行機雲を引っ掛けて撮影


日本で唯一の萱葺き屋根の駅舎である湯野上温泉駅で撮影。動く被写体を撮る練習には最適だ