コラム

見出し 風景写真
更新時間 2008/11/16 名前 よねやん
本文 ◇昔、三省堂の国語の教科書だったと思うが、その表紙に緑川洋一という風景写真家の作品が掲載されていた。当時、中学生だった筆者はち密さと完成度の高い緑川氏の風景写真に驚き、同じような作風の作品を近所で撮ってみたり、写真集を買っては研究してみたりしたものだ。

◇緑川氏は岡山県で歯科医師を営み、休みになると瀬戸内を中心に撮影に出かけ作品を発表されていた。「色の魔術師」と言われ、カメラの前にフィルターを付けて幻想的な風景写真を得意としていた。今では風景写真に関して情報にあふれ、ここへ行けばこのような写真が撮れるということが簡単に分かってしまう。昔ははまだ撮影旅行などする人も少なく、風景写真も一般的では無かったので誰も撮影していない未開の地が日本中にウジャウジャあったのだ。そのような時代に先んじて風景写真を撮りまくったのが緑川氏ということだ。もし読者が風景写真に興味を持っているなら一度は緑川氏の作品を勉強することを勧める。

緑川氏の作品
ここ

◇先日、「よみうり風景写真コンテスト」の作品審査があり、一万三千点近くの力作が勢揃いした。どれもこれも時間とお金をかけ、ち密な計算の下に撮られた作品ばかりで意気込みがすごく伝わった。多くの作品は、観光ポスターなどに使えそうなものばかりである。これは9年間のコンテストの歴史を毎年、写真集という形で残していることが作品のレベルアップに繋がっているのだろう。悪く言えば応募者の傾向と対策が万全にできていて、粒の揃った秀作が集まる傾向にあるのだ。

 荒選びが終わり審査終盤にさしかかると、審査委員の田沼先生が

「うーん、いいのが無いなぁ」

と困った表情で言われた。 解説すると秀作が少ないというわけでは無く、「優れた作品ばかりが並んでいるけれど、頭一つ抜き出た作品が無い」ということなのだ。決定打不足で困ってしまったのだ。入選はともかく、上位入賞の作品はその位置にふさわしい品格が必要だ。うまく撮れているだけの作品ではダメなのだ。

 「よみうり風景写真コンテスト」は第1回開催から人の営みの入った作品も「こころの風景」と称して風景写真として扱っている。ある写真団体では人や人工物が入ると邪道とみなす所もあるようだが、まったく考えが異なる。報道機関という性格上、記録性を重んじその時代の風景を遺すという考えなのだ。例えば、キレイな山の写真があったとする。100年後に誰かが撮れば自然環境の差はあるかも知れないが、同じような写真になる可能性はある。これが人の営みを織り込んでいるとすると、5年後10年後でも全く別の写真になるだろう。

◇このような風景写真に対する考えは最初から応募者者には伝わらないものだが、回数を重ねるにつれて理解され、応募作品が高いレベルで拮抗してきたということだ。悪く言えばマンネリということになるが、そこから新たに別の方向性を見い出すしかあるまい。今回の審査ではデジタルによる作品が目立って増えた。超高感度で撮った祭りなども入賞した。これはデジタルしか撮れないもので、新しい可能性を感じた。日本中、撮り尽くされた現状を打破するためには新しい機材で新しい可能性を試すしか無いように思う。応募者と審査委員の追いかけっこは永遠に続くのである。現在は数年前のトップレベルに多くの応募者が到達してしまって、次の可能性を秘めた作品を審査委員が待っている状態だ。

#出張の移動中、秋田・角館の武家屋敷に立ち寄った。
紅葉が最盛期を迎えているにもかかわらず、観光客はそれほど多くなかった。
日の出から9時位が撮影には最適だ。


絵ハガキのように綺麗な写真だが、それ以上のものは何も無い


大銀杏はどう撮っても絵になる。デジカメだとホワイトバランスが正確に出ないので注意が必要


遅い時間になると掃除されてこの光景は撮れない


地面にカメラを置き12ミリで撮影。